シュレディンガーのチュパカブラ
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僕が「シュレディンガーのチュパカブラ」という言葉を初めて耳にしたのは、大学のオカルト研究会でのことだった。
会員のほとんどは、都市伝説や心霊スポット巡りに興じる、ごく普通の学生だった。
しかし、一人だけ、妙に雰囲気を醸し出す先輩がいた。
彼はいつも暗い隅で、誰とも話さず、分厚いノートに何かを書きつけている。
ある日、勇気を出して話しかけてみると、彼は驚くべき話を聞かせてくれた。
「あれは、政府の極秘研究機関で生まれた、ある実験体だ。
名前は…『シュレディンガーのチュパカブラ』。
量子力学の奇妙な性質を利用して、存在と非存在の狭間に置かれた生物。
観測されない限り、どこにもいないし、どこにでもいる。
だが、一度観測されると、その瞬間に『確定』してしまう。
そして、その『確定』という行為が、観測者に 恐ろしい影響 を与えるんだ。」
先輩はそう言うと、ノートのページをめくった。
そこには、理解不能な数式と、奇妙な生物のスケッチがびっしりと書き込まれていた。
そして、あるページに目を留めた。
「これが、その実験体の『観測記録』だ。
初期の記録は断片的で、どこにも痕跡がない。
まるで、存在しなかったかのようだ。
だが、ある時点から、記録が異常に詳細になる。
観測者の主観が強く反映され、まるでその『観測者』自身が、実験体と一体化していくかのような描写だ。」
先輩は、そのページを指差した。
「ほら、この記録を見てくれ。
観測者は、実験体が『自分の部屋のクローゼットの中にいる』と記述している。
そして、次の記録では、『クローゼットの扉を開けることはできない。
開けたら、自分自身がそこにいることになるから』と。
さらにその次には、『扉の隙間から漏れる、あの 奇妙な匂い 。
あれは、僕の部屋の匂いと、どこか似ているんだ』と…」
先輩の声は次第に 震えていった 。
「そして、これが最後の記録だ。
『もう、扉を開ける必要はない。
だって、僕が、僕自身が、クローゼットの中だ。
そして、君が、僕を観測している。
だから、僕は、君の中にいる』。」
先輩は顔を上げた。
その目は、以前にも増して 虚ろ だった。
「君も、僕のこの話を聞いた。
つまり、君は『観測』したんだ。
僕の語る『シュレディンガーのチュパカブラ』という存在を。
そして、僕の話は、君の記憶の中に『確定』した。
これから、君がいつ、どこで、誰かとこの話をするか。
それが、僕の『観測』になる。
もし、君が僕のように、その『観測』という行為そのものに囚われたら…。」
先輩は、それ以上何も言わなかった。
ただ、僕の顔をじっと見つめていた。
その視線は、まるで僕の深層心理に潜り込み、何かを探っているかのようだった。
僕は、 背筋に冷たいものが走る のを感じた。
あの時、先輩に話しかけなければよかった。
ただ、それだけだった。