幻の甲子園
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市長室の空気は、酢で拭いたようなツンとした酸っぱさで淀んでいた。
僕、田中は、冷たい革張りの椅子に沈み込み、目の前の分厚い書類に視線を落とした。
市長室に来るのは二度目だ。
初回は、去年の就任祝いの時。
今回は、市役所の監査課の人間が『確認したいことがある』という連絡を寄越してきたためだ。
来客用のコーヒーサーバーを前に、僕は無言でボタンを押した。
温かい液体がカップに注がれる音だけが、静寂を破る。
「…田中市長」
監査課の課長らしき男が、硬い声で僕を呼んだ。
丸眼鏡の奥の目が、鋭く僕を射貫く。
「ご提出いただいた、市長としての学歴証明書ですが…」
彼は、僕が提出した卒業証書のコピーを指差した。
「〇〇工業高校野球部卒業」と書かれた、あの証書だ。
あれは、確かに僕の母校の校章を模した、精巧な偽物だ。
現実は、野球部ではあったが、甲子園出場どころか、2回戦で強豪校にコールド負けした、その年のチームで、僕の代は最早、記憶にも残らないような存在だった。
「この、野球部…」課長は、言葉を区切り、かすかに喉を鳴らした。
「うちの調べでは、貴方様が在籍されていた〇〇工業高校野球部は、19XX年の夏の大会、2回戦で、相手校に棄権を申し出たと記録されております。
つまり、大会自体への参加が、実質、そこで終了した、と…」