元新聞配達員として、あのルートをもう二度と辿れないことを、この『サービス』は教えてくれたのかもしれない。
佐藤は肩をすくめ、店を出た。外は何の変哲もない、ただの昼下がりだった。一〇〇円の真実
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佐藤は、無職の元新聞配達員だった。
日課は、近所のスーパーマーケット「ハローズ」に立ち寄り、設置されている一〇〇円のコーヒーマシンの前に立つことだ。
安い、それだけが理由だった。豆の質や味など、期待するだけ無駄だと知っていたからだ。
ある火曜日の午後、いつものように硬貨を投入し、ブラックを選択した。
ガコン、と機械が唸りを上げ、異様な音が混じった。
「おや?」
注ぎ口から出てきた液体は、琥珀色ではなく、鮮やかな紫色をしていた。
佐藤は目を擦ったが、色は変わらない。匂いは、確かにコーヒーなのに、なぜかかすかに菫(すみれ)の香りがする。
好奇心が勝り、彼は恐る恐るそれを口に含んだ。
味は、驚くほどまろやかで、人生で飲んだどのコーヒーよりも美味しかった。まるで、彼がこの世界に来る前に配達していた、あの朝焼けの空の色を閉じ込めたような味だ。
翌日、彼は再び同じマシンを訪れた。そして再び紫色のコーヒーが出た。
「これは一体…」
彼は常連客の女性に尋ねてみたが、彼女は「いつも通りのブラックよ」と首を傾げるだけだ。
佐藤は気づき始めた。このコーヒーは、彼が配達していた時の、配達ルートの記憶や、忘れ去られた朝の光を抽出しているのではないか、と。
そして三日目。佐藤がコインを入れると、マシンは沈黙した。
ディスプレイに表示されたのは、小さな文字で「本日のサービスは終了いたしました」というメッセージ。
彼は理解した。このマシンは、彼の過去の配達ルートを飲み干してしまったのだ。
— END —
このお話、どうだった?
こわい話ソムリエの一言
「元新聞配達員さんの「過去」を抽出するコーヒーマシン、なんて詩的で奇妙なんでしょう!飲み終わった後の「ただの昼下がり」の対比が、かえって切ないね。」